2018年8月12日日曜日

年間第19主日

第一朗読:列王記上19・4-8
第二朗読:エフェソ4・30~5・2
福音:ヨハネ6・41-51


皆さん、おはようございます。
今日の福音もヨハネによる福音の箇所です。
私たちの典礼のB年の中で5つの日曜日のために聖ヨハネの6章から福音箇所が出てきます。
なぜなら、彼が御聖体を詳しく説明したいからです。
面白いことはマルコによる福音、ルカによる福音、マタイによる福音の中で、御聖体を説明するために最後の晩餐の様子を説明します。
しかし、聖ヨハネは最後の晩餐について説明がありません。
彼が一番最後に福音を書いた人です。
多分彼が、マタイ、ルカ、マルコの福音を読んでから、自分の福音を書きました。
イエス様について説明が足りない所を補足することが彼の目的でした。
特に信者達と御聖体を頂く習慣は、重要だと思い詳しく説明するために、6章の中で深く説明しました。
今日の説明の部分は御聖体の魂に対する結果についてです。
美味しい食べ物を食べて、お腹いっぱいになると食べ終わります。
しかし、私たちの魂は、イエス様の為にいつもお腹が満腹になることはありません。
そのために、2000年前の人々は、イエス様を探したり、集めたりしました。
私たちもそれに似ていることは、毎週日曜日に集まってミサを行っていることです。
スーパーで食材を買いますが、教会の祭壇からだけ、このイエス様の大切なパンを授かることが出来ます。
御聖体の中で一番大切な材料は、イエス様の愛です。
この御聖体のパンを食べると、イエス様の気持ちと力と約束の全部を頂きます。
本当に御聖体を通して、イエス様の存在を感じることが出来ます。
そして、彼の存在は私たちと共になります。
イエス様と共にいれば、寂しい気持ちが無くなり、悪魔を退ける力を頂くことになります。
また、一番大切なことは、イエス様と同じように、目の前の人々を赦すことが出来ますし、色々な方法で愛することも出来ます。
本当に御聖体を通して、私たちはミニイエス様になることが出来ます。
それは「クリスチャン」という意味です。
ですからクリスチャンになることは、活動的な宗教です。
私たちの力の源は御聖体です。
日本人は一番の基本の食べ物はご飯です。
同じように2000年前のユダヤ人の基本的な食べ物はパンでした。
パンが無ければ死にました。
イエス様はこの考えを使って自分の存在について説明をしました。
福音の中にはパンについての話が沢山あります。
例えば、イエス様が教えた主の祈りの中でも、パンという言葉が出てきます。
その祈りの中のパンは、スーパーで買うパンではなく、教会の中で頂くパンですね。
イエス様の希望は、私たちが一生懸命通いながら、彼の食卓に集まるイメージです。
ユダヤ人たちが過ぎ越し祭りを祝うために、羊の肉を食べましたが、普通の人はそのような肉を食べることは出来ませんでした。
ですから、パンは貧しい人たちが生き残るための栄養です。
パンもそうですし、ぶどう酒もそうです。
人間が作った食べ物飲み物です。
やはり私たちの仕事が神様を賛美するために大切です。
それを忘れないために、ミサの中で大切な部分があります。
神父がパンとぶどう酒の捧げ物を準備するために、ぶどう酒の中に少し水を入れます。
それが私たちの印です。
その意味は、私たちの命が、イエス様の命と混ざることを意味しています。
それは、イエス様の希望です。
イエス様は私たちの兄弟、友人になりたいと思っています。
イエス様が私たちを教会の中で待っています。
もちろん祈りを通してイエス様と直接触れ合うことが出来ますが、ミサに参加することによって、彼と共に天国的な食事をすることが出来ます。
ですから、ミサに参加するときに、この世の苦しみを乗り越えて、天国の光景を感じることが出来ます。
素晴らしいことです。
2000年前から私たちキリスト教信者達は、御聖体を通して、魂の栄養を養うことが出来ました。
どうぞ皆さん、もちろん日曜日のミサも大切ですが、平日のミサもあるので、魂の健康のためによくミサに参加して、イエス様に感謝の気持ちを表しましょう。