2019年3月17日日曜日

四旬節第2主日

第一朗読:創世記15・5-12、17-18
第二朗読:フィリピ3・17~4・1 または3・20~4・1
福音:ルカ9・28b-36


みなさん、おはようございます。
みなさん、見ることはいいことですか、悪いことですか。
私は大学院に入ってから目が悪くなり、初めて眼鏡を使いました。
だんだん、目が悪くなるので、毎年の今頃、眼鏡のチェックをして、必要であれば新しい眼鏡を買います。
先生方は良く見えることを求めます。
でも時々、私は見ているものを間違います。
最近、遅い飛行機に乗って東京に到着して、メリノール本部へ行くために浜松町からタクシーに乗りました。
荷物がたくさんあったからです。
そしてタクシー運転手を後ろからみると、ポニーテールをしており、私は女性だと思い、「女性の運転手は珍しいですね。」と言いました。
すると、「私は女性ではありません。」と言われました。
これは私の失敗談です。
そのとき私は日本語で、「そうですね。すみません。」と言いました。
今日の福音を読んで、この出来事を思い出しました。
なぜなら、弟子達はイエス様が新しくみえたからです。
弟子達はイエス様と長い間一緒に過ごしましたが、初めてイエス様の存在を深く理解しました。
私たちも毎年、四旬節の目的は、神様、自分、周囲の人々がよく見える(理解する)ために、祈り、断食、施しをします。
四旬節の時間を有意義に使うために、2つの方法があります。
1つは奪取です。
もう1つは成長する方法です。
カトリック教会は、本当に成長する方法を選びます。
そのために今日の変容の福音の箇所を、四旬節の第2日曜日に入れました。
少し重い話ですが、私たち大人信者たちは、イエス様と同じように死の運命に向かいながらも、彼と同じように希望も持つことができる人生を送れるはずです。
みなさん、シェイクスピアのAs You Like It(お気に召すまま)という劇の内容を知っていますか。
その中で、ジャックという人が人生の7つ段階について独白しました。
たぶん皆さん、彼の言ったことを聞いたことがあると思います。
「世界はステージで私たちは役者である」と言いました。
この言葉の意味は、命に自由はなく、私たちは操り人形であるということです。
その精神から解放するために、今日、福音の中でイエス様は明るい未来について予言しました。
もちろん、希望的な将来は御復活です。
私たちはイエス様と同じように、希望ある将来に招かれています。
シェイクスピアはおもしろいときに生まれました。
彼は若い時に王様がカトリック教会の教皇様と離婚できないことに反対しました。
そのためイギリスの教会が生まれました。
それがプロテスタント教会です。
しかしシェイクスピアの家族はカトリック信者でしたので、彼の劇を通してカトリックの価値観を象徴しました。
例えば、基本的な価値観は、人間性は善いことで、恵みを通して人間性を磨くことをですが。
しかし、あるプロテスタント教会はそれに対して懐疑的です。
皆さん、私たちが残りの四旬節を使って自分の命を磨くためにも頑張りましょう。
イエス様とマリア様の人生を振り返ると、希望の将来があることがわかります。
怖いことはありません。
この人生に対する態度を福音宣教のために現わしましょう。