2018年3月25日日曜日

受難の主日(枝の主日)

福音:マルコ11・1-10
第一朗読:イザヤ50・4-7
第二朗読:フィリピ2・6-11
マルコによる主イエス・キリストの受難:マルコ15・1-39


皆さん、おはようございます。
受難の日曜日は本当に特別な祝日です。
なぜなら、このイエス様の物語を通して、どんな方法で私たちの罪の生活から解放されたか、詳しく説明します。
イエス様が私たちの罪のために亡くなりました。
ですから、今日から御復活の日曜日まで、聖週間といいます。
どうぞ皆さん、目の前の週間の行事、聖木曜日、聖金曜日、聖土曜日、御復活の日曜日の典礼に参加しながら、イエス様の犠牲に感謝の気持ちを表しましょう。
今日の福音を読みながら、ちょっと文章的に違う雰囲気を感じるかもしれません。
新聞のイベントのように記されています。
実は受難の物語は、最初に書かれていました。
ですから、詳しく説明があります。
イエス様はこの聖週間のイベントを、いつどこで何をするかイエス様が計画しました。
まず、木の枝の使い方は深い伝統があります。
ダビデ王の詩編(9212節)の中で、ヤシの木は喜びの象徴です。
聖書に書いてありますが、ソロモンの素晴らしい神殿の壁に、このヤシの木の彫刻を飾りました。(列王記上629)
また新約聖書の中で、聖ヨハネの黙示録の中で、天国の国民は救い主を賛美するために、ヤシの枝で腕を振ったそうです。(ヨハネの黙示録79節)
私たちは喜びの気持ちを表すために夏にお花火を使うように昔のユダヤ信者たちがヤシの枝を使いました。
その背景で、福音の枝の行列は、将来のイエス様の勝利の姿を預言します。
ロバに乗ることは労働者の動物でした。
イエス様がロバに乗っている意味は、彼は神様の労働者としてこの世に来たというメッセージを伝えます。
これは救い主の仕事です。
当時の王様たちや、ローマ帝国のリーダー達は普通、立派な馬に乗りました。
彼らのメッセージは、人々から褒めたたえられることを望みました。
イエス様は、マルコによる福音1045節に彼の精神を発表しました。
「人の子は仕えられるためではなく仕えるために来ました。」と言いました。
素晴らしい精神です。
1200年後に、聖フランシスコは、そのイエス様の精神を黙想しながら、自分の祈りの文書を書きました。
このイエス様の精神は、また、聖木曜日の最後の晩餐に2回同じメッセージが出てきます。
一つ目は、イエス様は直接、弟子たちの足を洗う式を通して示します。
二つ目は、過ぎ越し祭りのメニューの変化を通して示します。
パンはイエス様の身体、葡萄酒はイエス様の血の印として配りました。
もちろんその捧げものは、明日、聖金曜日の十字架上で自分の身体と魂を捧げる物の印です。
ですから、私たちは、毎回のミサに来るときに、カトリック円山教会のお御堂の訪問は、ゴルゴタの訪問と同じです。
素晴らしいことです。
受難の日曜日の長い福音から、何を学ぶでしょうか?
やはり、一年の中で今日だけ一般信者たちは福音を読みます。
この意味は、私たち皆この物語の中で、役割があると教えるためです。
寂しい考えですが、本当に私たちの罪を通して、イエス様がこの酷い受難の運命を受けました。
私たちの罪がイエス様の十字架の重さをより重くしています。
今日の福音の中で、沢山の人物(キャラクター)が出てきます。
その中で、イエス様の足に香油を塗った女性、ユダ、聖ペトロ、寝ている弟子たち、大祭司、ピラト、軍人たち、キレネのシモン、マグダラのマリア、母マリア様、アリマタヤのヨセフなどです。
皆さん、この人物の中で、あなたは誰に似ていますか?
母親マリア様以外の人々は罪人でした。
私たちも日々の罪は、イエス様の受難に加担しています。
私たちは、2000前の人々よりも、私たちは、はっきりイエス様の救い主としての貢献を理解できますが、時々罪の失敗をします。
イエス様は私たちの模範です。
彼は本当に愛の溢れる男性でした。(Man of Love)
私たちが罪を犯したときは、自分の我がままの楽しみのためです。
それはイエス様の精神ではないですね。
どうぞ皆さん、来週まで毎日、キリスト教信者であることを、愛の業を通して貢献しましょう。
最後に、このポイントを忘れないように一緒に聖フランシスコの平和の祈りを唱えましょう。