使徒パウロのコリントの教会への手紙(一コリント11・23-26)
ヨハネによる福音(ヨハネ13・1-15)
皆さん、こんばんは。
忙しい中イエス様の最後の晩餐の記念日にお集まりくださりありがとうございます。
日本もアメリカも同じように、子供時代から母親たちは、私たちに食事の前に「手を洗ってください」と言われたでしょう。
それは本当に、良い習慣と健康のためですね。
その背景で、どうしてイエス様が足を洗いましょうといったでしょうか?
足で食事を食べないでしょう。
その答えは少し歴史的なことです。
2000年前のエルサレムの町は、石畳の道でした。
しかし、美術館の絵を見てみると、その時代はまだ靴下がない時代だったようです。
ですから、足が汚れることがありました。
余裕がある家では、しもべによって、家に入る前のお客さんたちの足を洗ったり、香油を塗ったそうです。
今晩、聖木曜日のイエス様の足を洗う行いは、少しわかりづらいことがあります。
なぜなら、家のしもべが弟子たち、イエス様の足を玄関で洗ったと思います。
その上でイエス様は、家の中で2度目に弟子たちの足を洗ったようですね。
どうしてしょうか?
足は全ての動物にとって、大切な道具です。
人間だけ足が二つで、歩くことができます。
それは人間の特徴ですね。
聖木曜日でイエス様が弟子たちがイエス様の足を洗う行いを通して、人間の特別な美しさを再認識するためにしました。
もちろん、この行事は洗礼と関係があります。
もう一つの意味は、福音宣教のためです。
2000年前の人間にとって、移動手段は徒歩でした。
よって、足は大切な道具でした。
その聖木曜日で、イエス様はわかっていました。
最後の晩餐でした。
イエス様のメッセージを伝えるために、弟子たちのことを頼っていました。
本当にその行事は叙階式の一部です。
イザヤ預言者はこのことを52章7節に書きました。
「いかに美しいことか 山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は」と記録されました。
現代の神父になる典礼に、司教様が助祭に手を祝福しますが、2000年前にイエス様が足を祝福しました。
イエス様の行事は出発式ですね。
現代のミサもこの足を祝福する行事と関係があります。
ミサが終わってから、神父の言う挨拶は「行きましょう。主と平和のうちに。」です。
それによって、私たちミサに参加する信者たちは、イエス様の弟子たちの任命式に似ているでしょう。
イエス様の御体と御血によって、彼の精神を受け、まだ神様を教えるために出発します。
この背景を通して学んだことは、聖木曜日の足を洗う式は、食事の前に手を洗う習慣に似ています。
手を洗うことは身体の健康のためです。
足を洗うことは魂の健康のためです。
手を洗うことはあまり恥ずかしい行事ではありませんが、足を洗うことは現代の私たちにとって、恥ずかしい気持ちになるかもしれません。
アメリカも日本も今日のミサのために、足を洗うボランティアを探すことは難しいです。
多分韓国だけ、この行事を簡単に行っています。
なぜなら昔から韓国人は習慣で、家に帰ってから手も足も洗います。
とにかく今日の福音の個所を通して、どのくらいイエス様が私たちの全身の健康に関心があるか学びます。
素晴らしいことですね。
どうぞ皆さん、私たちの独自の美しさに戻るために、イエス様の愛を通して足も全身も洗うことを求めましょう。
そして、その古い自分を捨てて、新しい自分になり、神様をわからない人々に、今日の最後の晩餐の記念日から出発しましょう。