第二朗読:ローマ5・1-2、5-8
福音:ヨハネ4・5-15、19b-26、39a、40-42
おはようございます。四旬節第3日曜日にようこそ。
先ほど読んだ福音の箇所でイエスさまが、のどが渇いている女性に会いました。
この箇所は私達の精神的な「渇き」を表しています。
それは彼女が話した「生きている水」です。
この精神的な渇きは、私達の日々の活動を導きます。
これを読んで、何年か前に映画館で観た、美しい「レ・ミゼラブル」という映画を思い出します。
どうぞみなさん、この四旬節の中で、時間があれば霊的な生活のために、この映画を見て、黙想してください。
ケン神父もDVDを持っていますので、お貸しすることもできます。
その映画の内容は、フィクションですが、150年前のフランスの歴史をもとにしています。
この小説を書いたのはビクトル・ユゴーです。
観ていない人々のために簡単に話します。
主人公はジョン・バルジャンという男性です。
彼は貧しく、空腹のために店からパンを盗み、何年も刑務所に入っていました。
ついに出所しましたが、彼の心は暗く、かたく閉ざされていました。
偶然ですが、優しい神父に出会います。
神父の優しさに触れて、彼は改心し、自分も生きがいのためにその神父のように生きることを決意しました。
物語の中で可哀そうな女性労働者に会います。
名前はファンティーヌです。
彼女はシングルマザーで、娘はコゼットといいます。
彼女は働きすぎて、娘が病気になり泣きながら、「コゼットを助けてください」とお願いしました。
そしてこの後の物語は、彼が娘を助ける話です。
ジャン・バルジャンとの約束をしたことで、ファンティーヌは安心して亡くなりました。
映画の中で、彼女の可哀そうな心から美しい歌が生まれます。
この歌詞は次のものです。
♪I had a dream my life would be
So different from this hell I'm living,
So different now from what it seemed...
Now life has killed the dream I dreamed...
(私は自分の人生を夢見ていた
この今の地獄とは全く違う人生を
でも、昔の夢とは似ても似つかぬ今の人生
今、人生は殺してしまった、昔の私のあの夢を)
今日の第一朗読も、のどが渇いた人々の話です。
それは、エジプトの奴隷生活から解放されたユダヤ人達です。
砂漠の中で苦しみがあって、誘惑を通して文句ばかりでした。
その時、自己不信と神様への信頼が薄くなりました。
その時モーゼは神様に祈り、岩から水が出てきました。
その水は二つの意味がありました。
体のニーズを満たすためではなく、渇いた魂のニーズを満たすためです。
神様は命の源なので、神様の恵みによって生きるという深い意味もありました。
その時から、だんだんイスラエルの国民は新しい生き甲斐を見つけました。
エジプトでしもべとして水と食べ物のために、生き残るために、働きました。
でもこの出来事を通して、神様の心を理解し、永遠の命を得るために、生きがいに変化しました。
福音の中のソマリアの女性も、同じような問題がありました。
彼女は命の意味のために、五回結婚しましたが、まだ心は満足していませんでした。
でもイエスさまに会うことを通して平和な心を感じ、イエスさまに水を頼みました。
それは「生きている水」です。
その味は神様の永遠の愛と同じです。
この箇所の面白いことは、イエスさまが彼女に水を頼みましたが、最後には彼女から水を頼みました。
やはり、彼女は私達の代表の人間です。
私達もこの命の中で、意味を探しています。
その意味によって、人々は悪い習慣に堕ちます。
アルコール、タバコ、ギャンブル、ショッピング、悪口、怠惰、食べ過ぎなどです。
それは全て良い生き甲斐ではないでしょう。
私達カトリック信者達は、神様のお呼びのおかげで教会信者となりました。
洗礼の水が私達の精神的な渇きを満たしてくれます。
それと同じように、御聖体も私達の精神的な空腹を満腹にしてくれます。
やはり、神様が私達の必要な飲み物・食べ物です。
私達カトリック円山教会の日本二十六殉教者達はこれを信じて、神様のために自分の命も捧げました。
今私達はそのようなひどい犠牲は必要ないかもしれませんが、周りの人々に私達への神様の愛を示すために、残りの四旬節の時期に、優しい言葉と愛一杯の行いを通して神様に感謝いたしましょう。