第二朗読:ローマ8・31b-34
福音:マルコ9・2-10
皆さん、おはようございます。
先週第一の四旬節の日曜日に、イエス様の砂漠での黙想会を考えながら、断食について話しました。
今日、四旬節第二日曜日、祈りについて考えましょう。
そのために、今日のカトリック教会の典礼は、イエス様の変容の福音箇所を選びました。
まず、その変容の定義について考えましょう。
変容とは、素晴らしい影響を受けて良い面に変化することです。
普通よりもっと美しくなります。
本当にそれは、御復活の目的です。
現在の自分の外面、内面が新たになり、新しい自分になることです。
しかし、死を体験しなくても、この世の中で、変容の体験があるでしょう。
新しい服を着たときに、鏡を見て、自分の新たな姿に喜びを感じるでしょう。
良い本を読むこと、美しい絵画を見ること、印象に残る歌を聴くこと、楽しい映画を見ることを通して、新しい気持ちに生まれ変わることがあるでしょう。
3月1日に日本の映画館で公開されますが、「ブラック・パンサー」の映画が世界中で大人気になっています。
特に黒人の聴衆にブームが起こっています。
アメリカの漫画を実写化したものですが、初めての黒人の主人公の映画として話題になっています。
その背景で、今日のイエス様の変容を考えましょう。
この出来事は、イエス様が死ぬ前に少し起こったそうです。
ですから、四旬節のために良い黙想の内容です。
イエス様が弟子達を勇気付ける為に、瞬間に自分の本当のアイデンティティーを示しました。
それは、神様の息子である救い主です。
聖書の物語が始まってから、アダムとイブの失敗を取り戻す為に、人間は救い主を待っていました。
聖書の中のユダヤ人の民族が、神様を信じていましたので、忍耐を持って待っていました。
今日の福音で、モーゼとエライジャを表した目的は、イエス様の救い主としての役割を認めることです。
モーゼもエライジャも救い主が来ることを預言しました。
ですから、その箇所で、2人の預言は完全になります。
しかし、イエス様の救い主としての登場は、力のある軍人達のリーダーとしてではなく、自分の犠牲によって、救う方法です。
そのことは、弟子達にとって理解しにくいことでした。
救い主なのに、どうして苦しみを受けるべきなのか考えていました。
聖書の歴史の中で、この似ている箇所は、第一朗読のアブラハムとイザクです。
イエス様の物語に似ていることがあります。
アブラハムは、神様への信仰の従順な模範です。
また、イザクがお父さんのお願いを聞き入れることは、これも従順な模範です。
イエス様の受難と、イザクの受難は似ています。
両方とも山の上で行います。
イエス様の十字架上での受難の場所もゴルゴタの丘でした。
第一朗読のイザクの上に木を沢山置きました。
イエス様の場合は重たい木の十字架を持たされることでした。
イザクの命を捧げる前に、天国からの声があり、止めるように言われたそうです。
イエス様は十字架上で、天のお父様に叫びました。
そして天のお父様はイエス様に応えるために、御復活により生き返ることができました。
それは、人間を救うことについての重要なポイントです。
このことと、祈りはどういう関係でしょうか?
今日の第一朗読と、福音の登場人物の共通のポイントは、皆、祈りの生活のなかで、神様の声を聞いたことです。
旧約聖書のアブラハム、モーゼ、エライジャの三人も別な場所で、神様と直接会話した部分が書かれています。
新約聖書の中で、弟子たちがイエス様から直接声を聞いて従いました。
イエス様も新約聖書の中で、何回も祈りのために放れた場所に行ったそうです。
イエス様の一番記録された場所はゲッセマネの庭でした。
その時イエス様は、泣きながら神様に祈ったそうです。
イエス様が、私達も霊的な生活において成長できるように、「祈りなさい」とアドバイスをしています。
もちろん彼の一番奨める祈りは、「主の祈り」です。
カトリック教会の祈りの特徴は、私達のニーズのために、神様から与えられるだけではなく、神様の存在を感じることが最も大切です。
そのために、祈ることは難しいことです。
互いからの話を聞くことは簡単ではありません。
忍耐と時間が大切です。
また、互いの存在を尊重するべきです。
どうぞ皆さん、今週四旬節の心の旅を進化させるために、アブラハム、モーゼ、エライジャ、弟子達、イエス様の模範に従って、神様の声のために祈りましょう。